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<過去記事再録>2006-01-28『うまい日本酒は何処にある』増田晶文 [名著蛇行歴]

何だか過去の遺産を食いつぶすみたいですが、
巡る季節が変わらない様に(これも昨今の温暖化の影響で怪しくなる?)、
同じことを繰り返したとしても、新しい発見は可能かなと思っています。

ちょっと気になるのは、純米酒とアルコール添加酒の問題を、
技術的な問題や嗜好の問題、あるいは感情論や文化的な範疇で
議論するアプローチばかりが目立つ点です。
確かにこれらの事柄も大切なのですが、
それだけでなく日本におけるお酒の法律が財務省、
特に国税庁の管轄にあることを忘れてはなりません。
加えて、お酒の原材料がほとんど農産物であるという部分においても、
主食である米を利用する清酒の業界はもっと複雑なものがあります。
減反政策等を含む食料管理法の影響も考慮する必要がありますし、
特に、高度経済成長期における農耕地に関する政策は、
労働不足に陥っていた産業界からの政治力によるものも計り知れません。

今読んでいるフランスワインに関する本では、EC統合における農業分野の法律の延長で、
1968年からフランスにおいて保証付きの葡萄の樹の引き抜き政策が取られ、
1988年までの20年間でテーブルワイン用の畑を中心にそれまでの
総栽培面積の20%にあたる24万ヘクタールの畑が減少していて、
これはおよそ年間170万キロリットルのワイン分に相当するようです。
それに伴い市場へのワイン供給量が減少したのは言うまでもありませんが、
これらの政策が、たんに供給過剰に陥ったワイン市場への調整的な役割だけでなく、
他のワイン産出国やビール輸出国との政治的なやり取りから多大な影響を受けていて、
1991年の保証金としてはフランスの国庫から2億フランが負担されたともあります。

飲まなくなったから、売れないのではなく、
飲まなくなる環境を与えられているという側面も多大にあるわけですね。

同じ米からより多くの清酒を得ることが出来るアルコール添加酒により、
利益を得るのは企業だけ無く、国庫もまたその一つなのです。
純米酒を本当に守りたいなら、アルコール添加酒より酒税を安くすればいいわけですし、
同じ米の量から多くの税金を徴収できるアルコール添加酒に旨味を覚えているのは、
何も生産者がわだけでないというのを押さえておく必要があると思います。

とそんなこんなで、2006年の1月に書いた物なので、
およそ2年近く前の記事になります。

『うまい日本酒はどこにある?』増田晶文(2004.9)草思社
読むと燃えます。
読めばあなたも日本酒応援団になれます。

本日のブログも退屈な内容、偏屈な内容です。
お気楽な気分になりたい方は素通りしてください。

名著“遍歴”ではなく“蛇行歴”としたのは、
だいたいが飽き症の私ですので、ひとつ所に興味が落ち着かずに、
次から次へとジャンルを変えて読んでしまっています。
このブログでは基本的にグルメ、ドリンク本を推薦したいのですが、
たまには趣味の好きな作家のものを紹介するかもしれません。
辿り着いた人は悪しからずです。

およそ二年弱前に出た本ですので、取材の時期はそれ以前でしょう。
日本酒の業界はもっと酷い状況に陥っています。
焼酎と比べてどうだとか言う以前に、もしかしたら絶滅危惧種、
レッドデータブックに掲載されているかもしれませんね、
日本酒産業、それに加えてうちみたいな下町の酒屋も同じです。
減り続けているとはいえ、実際の消費量、生産量から言えば、
まだまだ巨大なマーケットですし、日本酒を飲む人がいなくなるなんて
思いもしないのですが、ごく一部の限られたスノッブな人たちや、
モードが先行するような形でしか残り得ないんじゃないかと思ってしまいます。
あるいは伝統産業としての意味合いからくる評価の方が大きくなって、
生活の中に根ざしたものと云うよりは、精神的な満足感や
文化的な自己同一性への希求からしか存在し得ないのではないか
等と思ってしまいます。なんか難しい言い方になってしまってますが、
つまりは、今や日本の国酒というべきはビールなんだと思います。
取りあえずビール、まずはビールで初めて、等とも言いますが、
何よりもそれを飲む人が口にすることそのものを楽しんでいて、
そこに乗っかっている情報を飲んではいないんですよね。
こんなこと言ってると怒られそうなんですが、
確かに日本酒の持つ味それ自身を楽しんでいる人は大勢いますし、
こらからもいなくはならないんでしょうけど、今僕自身も含めて、
日本酒を売り込む時には味そのものの美味しさもあるのですけど、
そこに込められた物語をアピールしていることが多分にあるんですよね。
例えば、去年一部で、男性用の下着“ふんどし”が密かなブームになりかけたり
していましたが、通気性のよさとか着心地の良さとかある種の利便性を
訴えつつも、結局の所それを使用することは、精神的な満足感、
あるいは込められた情報を消費しているのでは無かろうかと思います。
日本酒でいえば、スローフードとか身体に優しい純米酒というキーワードですね。

(高度に発達した資本主義経済の中では、あるものが消費されることにより
失われゆく商品の差異性を再生産するために、モノそれ自身ではなく、
情報の差異を再生産することによりエネルギーに代え、資本循環の
ダイナミズムを得なければならないのではないのだろうか?
モノ自身を消費しているのではなくシンボルマークを食べている?)

・・・・・・、話がそれ過ぎました。本の話に戻ります。

内容的には構成とアプローチが良いんだと思います。
例によって具体的な内容には踏み込みませんが、
小さな生産者だけを評価したり、一方的な純米酒礼讃に陥っていまん。
小規模蔵と大規模メーカー両方への取材、
物流の担い手、酒販店への取材、
末端の消費者に最も近い飲食店への取材、
この業界の抱える光と影の部分を公平に描き出していると思います。
取材先のセレクションもかなり良い線をしていて、
東京の居酒屋“Tの子”なんかは、口コミなんかで噂になり、
以前から動向が気になる店のひとつだったり、
大メーカーにしても、身も蓋もない蔵ではなく、そこそこ業界に対する
貢献度が高く、それなりに真面目に大手メーカーとしての生き残りを
模索しているところを選んでいます。

ところで、日本酒産業を伝統産業として生き残らせようとしている動きが
活発ですが、私はそうも思わないんです。確かに、高度経済成長期からこっち、
大量生産、大量消費で、間違った生活スタイルに来ているのかもしれませんが、
なんか、日本酒が文楽や能楽みたいな、何かしら教養の一部
みたいになっては欲しくないな。確かにそれ自身で現代的な価値を再発見
されてはいますが、なんか、文部省推薦の日本酒とかになったら嫌じゃありませんか?
やはり、夜の、あるいは路地裏の、退廃的な大人の遊びで在って欲しいですよね。
アルゼンチンタンゴの代名詞“ピアソラ”は、酒が注がれたグラスの触れる音、
紫煙に煙るライブハウスの雰囲気に憧れて、音楽の世界に飛び込んだというし、
東京大学のアルバートアイラーなんて呼ばれている菊池成孔さんなんかも、
東大で講義をしながらも、新宿歌舞伎町の雑居ビルに住んでいるそうですね。
猥雑さ、騒々しさの中にこそ、シャンパーニュの泡の煌めきと儚さがあり、
日本酒のもつ透明感や枯淡な感じは、鄙びた忘れ去られた裏通りにありそうです。

では、どうすれば良いんだ日本酒業界、日本のアルコール業界、
という大問題を立てたとして、思いつくところは如何に?
それをこのブログで少しづつでも解きほぐして行けたらと思います。
ただし、問いが立つのは答えのある場所が見えたときともいいますし、
具体的にやらなければ行けないことは既に山積みなのですが。

<理想的な日本酒との付き合い>

お陽様の高いうちに終える仕事に就くか、あるいは仕事が休みの日、
タオル片手に下駄か雪駄をつっかけて、夕方少し早い時間に銭湯にでもいき、
湯気がもうもうと立ち上る湯船の中には、傾きかけた午後の日差しが跳ね、
少し熱すぎる湯に身体を浸し、思わず漏れる声とともに全身が脱力し、
眼を閉じると瞼には赤く焼けた闇がうつり、他の人が身体に流す湯の音が
くごもったように「ザ、ザッー」と響き渡る。次第に温もる身体中の隅々から
日々に積もった思考のよじれが流れ出して行くような気分になり、
逆上せかけた身体に冷水を浴びせては何度も湯に浸かり直して、
半分湯当たりしたふらふらとした身体とともに、
心のひだにまで湯が入り込んだような、緊張が伸びきった気分になる。
風呂から出ると、近くにある昼間から暖簾が掛かっている居酒屋に立ち寄り、
昼から飲む客と、夜から飲む客の時間の狭間なのか、
店の中には他に客がまばらで、店主は料理の仕込みをしていて
厨房からは出ても来ないで奥に居ながら注文を尋ねてき、
アテは頼まず、最初は冷たくもなく、熱くもないお酒を飲んで、
二杯目はじゃこおろしか、何かのおひたしをアテに燗酒を飲み、
隅に置かれたテレビでは、何年も前に放映されたドラマの再放送が流れていて、
もう何度も見たはずなのに、つい最後まで見たいがために、
三杯目を飲んでしまい、湯に冷めぬ頭が今度は酒の酔いの中に
まどろみ始め、別の客の訪れとともに席を立ち勘定を済ませ、
帰り道ながらに飲んだ酒の銘柄を忘れている。
そんなお酒が飲みたい。

酒屋失格ですね。


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mie

お酒は、普段の生活の一部だということでしょうか?

様々なお酒、それぞれに美味しいのでしょうが、日本酒がいちばん身体に馴染むような気がします。
by mie (2007-10-21 03:25) 

つーたん

mie様、いらっしゃいまし。
日本酒が普段の生活の一部であったのが、
特別な日の飲み物になりつつあるような気がするのです。
皆が皆、そうではないのでしょうが、何気ない
家庭の風景に馴染むものでは、無くなりつつあると思います。
それが、良いとか悪いとかではなくて、
米の酒を飲まない風景が私には少し寂しくもあります。
by つーたん (2007-10-21 08:04) 

ぼんくら

ここ長い間、焼酎しか飲んでない私ですが、西宮の東町に行くようになり、日本盛や大関・白鹿・白鷹などの工場を目のあたりにして、日本酒を意識し始めたところ、つーたんさんのこのBlogです。

日本酒離れも相当なものだとは思いますが、そう考えれば日本酒党も相当なものだという気がします。

辰馬本家や大関酒造などは凄く大きな工場を営んでいるわけですから、需要は相当なものでしょうし、日本盛はお酒のイメージ改革に懸命な感を受けます。

お酒の話をしていると、急に天王寺の『明治屋』に行きたくなってきました。
今夜辺り行ってみようかな・・・
by ぼんくら (2007-10-23 12:21) 

つーたん

ぼんくら様、毎度でございます。
日本酒だけでなく、アルコール類全般が飲まれなくなっている
のが現在の状況で、焼酎だけが近年検討していただけです。
天王寺の「明治屋」さんは素晴らしいお店ですね。
あの雰囲気はまるで、伝統的なアイルランドのパブを
思わせるものがあります。正に大人の社交場です。
ただ、探すとあの雰囲気を残しているお店は
まだまだ大阪市内に幾つかあります。
いつか、どこかでご一緒しましょう。
昼間の銭湯を含めて。
by つーたん (2007-10-27 19:28) 

c-d-m

フランスワインに関する本の数字や内容は私も知っていますが
実際の所、文献や数字だけでは現実(事実)とかみ合わない所も多くて、それを語っている時代背景も今では古くて何ともいえない部分もあります。
数字のトリックはフランスと云う国の持つ独特のマジック的要素もあり、生真面目な日本人はそれを鵜呑みにしてはいけない・・・とだけ私は伝えたくなる時もあります。
本は「かつて」の「伝えようとした側の」情報として役には立ちますが、すべて歴史上の真実とは思わないほうがいい。
本当にウマかったワインの木はなくせるはずがありませんから。
もし生産者からそれを奪ったならば、革命が起こったでしょう。
それが仏蘭西人の本質です。
by c-d-m (2007-11-12 02:02) 

つーたん

c-d-m様、マイドでございます。
もう直ぐ新酒が味わえる季節となりましたね。
アドバイスを有り難うございます。
ちょうど、日本では産地偽装等が問題になっています。
これと同じ様なもので、私が参考にしている情報に嘘があると、
いくら私が本当のことを伝えていてもどうしようもなくなります。
常にそこの所は肝に銘じておきますね。
今回私が参照した本は、ジャン・フランソワ・ゴーティエの
『ワインの文化史』というモノなのですが、
欧州統合の話より面白かったのが、
守護聖人「サン・ヴァンサン」にまつわる話です。
読んでいて思うのは、その信仰の有り様がローマカソリックにより
制度化されたキリスト教的なものだけでなく、
土着的な要素も強く感じることのできる存在であるということで、
日本で言うと、聖徳太子や牛若丸の義経、
あるいは道真公のような庶民に人気のある、より世俗的で、
民間伝承により聖人化された人の様な気がしてきますね。
ワインを造る人に多い名前というのも解る気がします。
by つーたん (2007-11-13 20:25) 

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